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「へ? あたしが?」
「ええ……突然のことで大変恐縮なのですが、お願いできますでしょうか?」

始まりは突然だった。
たまたま、折々の事情が重なってエイミィが一人で家にいた。
しかもそれだけでない、全員が明日の昼まで帰ってこないのだ。
家族暮らしに訪れた突然の自由に、エイミィは自炊してみたり、仕事をしてみたり、暇を潰してみたり、
はたまたクロノの部屋を漁って秘密を暴露してみたり──後に、やらなきゃ良かったかもしれないと後悔したが──、
自由気ままに過ごしていたが、昼を回った頃、お隣さんが突然訪ねてきたのだ。
母親の腕には、まだ離乳食が始まったばかりに小さい、乳飲み子の赤ん坊。父親もいて、一緒に頭を下げている。
かくかくしかじか、要するに赤子を預かって欲しいようだった。期限は、明日の昼まで。
「それは、まあ、別にいいですけど……具体的には何をすれば?」
エイミィは当然の質問をする。生まれてこの方、トイレにも行けない小さな子供の世話なぞはしたことがないのだ。
取り敢えず、おしめを替えて、ミルクを上げて──いや待て、生まれてこの方母乳なんて出たことないぞ。
「ミルクはこちらにあります。分量と時間のメモがありますので、これを使って下さい。
それと、おむつに、おしゃぶりと、ガラガラも。この子、殆ど夜泣きはしないので、その辺りは大丈夫だと思うのですが……」
マニュアルがあるのなら、ありがたい。エイミィは困惑しつつも承諾すると、両親揃って頭を下げた。
恐縮と感謝が混じった、今時腰の低い人達だった。
「お礼は、帰って来た時にすぐしますので、それでは……」
踵を返そうとした父親に、母親がその袖を引っ張った。
彼が振り向くと、ピシャリと言う。
「やだ、あなた。この子の名前をまだ教えていないじゃありませんか」
そして夫婦は再び深々と頭を下げ、エイミィに顔を向けた。
「それで、名前は──」
エイミィが聞くと、二人は声を揃えて答えた。
自分の命名に自身を持っている、そんな声だった。
「愛子、です。私と主人の、愛の結晶」
微笑んだ母親の顔は、聖母と見まごうかのような安らかさを持っていた。

***

「とは言え、安請け合いしちゃったかなあ」
ソファーに座り、今一度赤子を抱き上げる。
きょとんとした目で見上げてくる、小さな女の子。くりくりと真ん丸なのが、またいじらしい。
一緒になって見つめ合うと、にっこり笑った。
「きゃは、ああ、あー」
可愛い。それが第一印象。
首は据わっているようだが、まだまだ自分で立ち歩くこともできない、本当に小さな存在。
頬を擦り寄せると、ぷにぷにとした水分たっぷりの肌が柔らかに撫でていく。
高い高いをしてやると、愛子は自分の世界が広がったようで、きゃっきゃと喜んだ。
人見知りをしないタイプらしい。新しい場所も、積極的に受け入れている。
学校に入ったら、すぐに皆と仲良くなって、探検隊のリーダーなんかをやるような子。
「あはは、あたしに似てるかもね。よしよし」
ふさふさサラサラの髪を撫でてやると、スッと指が抜けていった。
こんなに滑らかなのは、有り得ないと言ってもいいくらいだ。
その時、お昼のチャイムが鳴った。以前恭也に聞いた時は、確か……「椰子の実」という曲名だったか。
すると、愛子は窓に向かって手を伸ばし、じたばたし始めた。
「あ、あぅ、ああー!」
何かを求めるように、ベランダへ出ていこうとする愛子。
エイミィはその意図を理解した。
「あ、あのチャイムが聞きたいの?」
「あ!」
元気のいい返事。言葉がもう分かるのだろうか。
そういえば、何ヶ月なんだろう? 赤子の身長から判断できるような環境にいないから、さっぱりだ。
愛子をベランダに連れていき、しっかりと抱えて鍵を開けてやる。
外に広がった世界から、チャイムの音が高らかに鳴り響いていた。
彼女は気持ちよさそうに耳を傾けている。エイミィもしばし、ひと時の安らぎに身を委ねた。
「お昼の鐘、終っちゃったね」
ぷにぷに。頬を突ついてやると、愛子はすぅすぅ寝息を立てていた。
お昼寝の時間に入ってしまい、ちょっぴりエイミィは残念に思う。
が、腹がクゥと鳴って、我ながら誰しもに起きる生理現象で赤面した。
「さて、ご飯作らなくっちゃね!」
自分を鼓舞しつつも、愛子を起こさないように、自分のベッドに取り敢えず寝かせると、エイミィは昼食の準備に取り掛かった。

「……うん、こんなもんか」
始終、愛子のことを考えながら作っていたら、少しチャーハンを焦がしてしまった。
でも、感じ感じ。
ネギに魚肉ソーセージ、そして半分ばかり残っていたカニカマという質素なお昼だったが、ひとまず腹は膨れた。
粉末のわかめスープを啜ってソファーでくつろいでいると、眠気が襲ってきた。
「ふぁぁ……愛子もちょうど寝てるし、あたしもお昼寝しよっかな」
子育てと聞くと、びっくりするくらい艱難辛苦が待ち受けているのかと思いきや、意外にそうでもなかった。
一安心したエイミィはベッドに戻ると、愛子の身体を抱いて横になった。
赤子特有の高い体温が、寒空の下ではかなり優秀な湯たんぽ代りになってくれる。
安心が身体を巻いて、あっという間に眠くなったエイミィは、そのまま目を閉じた。
──この後待ち構えている、数々の苦労を夢に見ることもなく。

「おぎゃあ、あっ、ああーっ、あーん!!」
眠っていた頭が叩き起された。
深いところから急激に引き上げられた痛みに顔をしかめつつ、ベッドの横を見る。
愛子が泣きじゃくりながら、両手をじたばたさせていた。何事が起きたのかと、一瞬フリーズする。
だが、時計を見てすぐに分かった。もう昼の時間を大分過ぎているのだ。
西に低くなりかけた太陽が、橙色に染まりつつある。
エイミィは急いで夫妻の残していった粉ミルクを取り出して哺乳瓶に入れると、ポットからお湯を注いだ。
「あちっ!」
普段自分たちがお茶を飲むような温度だったが、手に跳ねるとこれが中々熱い。
こんなもの、愛子に飲ませる訳にはいかない。
水を張った鍋に漬けて、適温になるまで冷ます。泣き声が大きくなった赤ん坊の元に駆けつけて、胸に抱いてやる。
「ごめんねぇ、すぐご飯だからね」
ようやく温くなったミルクを軽く振って、僅かに残っていた粉までしっかり溶かす。
哺乳瓶の先を差し出してやると、愛子は無我夢中で飲み始めた。
「あー、ほらほら、もっとゆっくり飲まないとダメだよ」
瓶の傾きを微調整して、一度に飲ませすぎないようにする。
握力はあるのか、掴んだ瓶を離すことはない。んく、んくと美味しそうに飲む姿は、エイミィの心を温かくさせた。
誰かの為に料理を作って喜ばれた時の顔だ。人知れず、顔をにやけさせる。
「可愛いね、愛子は。ウチのクロノ君が小さかった時もそうだったのかな」
弟分であり、頼りになるアースラの仲間は、今はいない。
幼少時のことまでは良く分からないけれど、誰だって生まれた時は立つこともできないのだ。
その頃のクロノは、今と違って弄り甲斐はないけど、きっと可愛かったのだろう。
ほんの少しだけ、リンディの気持ちが分かった気がした。
ミルクを飲み終った愛子は、お代わりを欲しそうにあぅあぅ言ったが、もうおしまい。
「お腹壊すよ? だぁめ」
代りに、ティッシュで口元を拭ってやり、頬擦りする。
愛子の興味はものの見事にそっちに逸れていって、ぷにぷにの頬を擦り返してきた。
「おっ、やるのか? やっちゃいますか?」
そのままほっぺたをつついたり、逆につつかれたりしながら、昼下がりののんびりしたひと時は過ぎていった。
今更のように眠気がぶり返してきたが、もうどうしようもない。
泣き止んだ愛子と一緒に幼児番組を観ているうち、いつしか陽が落ちて一番星が見え始めた。

夕焼け小焼けで日が暮れて……

チャイムの音色が、また聞こえてきた。
もっと季節が巡れば、太陽が出ている間に流れてくるメロディであることだろう。
昼の時と同じように、外に出て音を聞きたがる愛子。
身体が冷えないようにタオルで包んでやり、ベランダに出る。
冷たくも柔らかい風が頬を撫でて、遠くへ吹き抜けていった。
夕闇からぼんやりと浮かび上がる夜景が目に飛び込んできて、エイミィは軽く口笛を吹く。
愛子も喜んでいるようで、始終キャッキャとはしゃいでいる。
よほど好きなのだろう、チャイムが鳴り終った後も、愛子はうっとりと余韻に浸っているようだった。
「さ、戻ろう。寒くなってきちゃったし」
みるみるうちに暗くなってきた街の景色を名残惜しそうに、二人は部屋の中へと戻った。

その後は、食事をしたり、おしめを取り替えたり──これが骨の折れることだと初めて知った──、洗い物をしたりと、
時は実に穏やかなスピードで進んでいった……直後に訪れる危機を目の当たりにするまでは。
エイミィが最後のコップを戸棚にしまい、ソファに寝かせていた愛子を振り向くと、彼女はソファの背に捕まり立ちをしていた。
いや、それだけならまだいい。好奇心が上回りして、ソファによじ登っていたのだ。
よじ登ったというのも、何か変だった。まだ『手』には力を入れられても、『腕』にまでは無理なはずなのだ。
無理な天秤を逆さにした愛子は、エイミィの方を向いた。にぱっと笑って、こちらに手を振った。
それが、いけなかた。
「あっ……愛子!!」
手を挙げたことでバランスを崩した幼子は、ふらりと傾いて、真っ逆さまにソファから落ちていった。
エイミィの時計が急に遅くなり、何もかもがゆっくりに見え、極限まで研がれた反射神経が身体を衝き動かし、
落ちていく愛子を受け止めようと、両手を懸命に伸ばした。
でも、届かない。フローリングへと叩きつけられようとしている小さい子ひとりの元へ、どうやっても辿り着けない。
遅かった。エイミィの目が思わず閉じられようとした瞬間、奇跡が起きた。
「んっ!! ……ん?」
間に合わないと感じつつ、懸命に愛子の下へ滑り込もうとしたが、衝撃音どころか床の上に赤子の感触はなかった。
目を開けて見回したが、どこにもいない。
まさか宙に浮いているのでもあるまいと、ふと上を見上げると、そこにはなんと愛子がいた。
清廉なオーラがじわりじわりと染み出して、その薄くも蒼い光は、クロノやなのは、フェイト達によく見られる光だった。
「え? この子、魔力を持ってるの?」
愛子は言葉の意味が分からないのか、それとも今の自分自身が不思議な体験に困惑しているのか、
実に自然な顔で首を傾げた。
そのまま軟着陸すると、ゆっくりと魔力光が消えていった。でも、その身体に宿る魔法の力は、未だ温かみを保ち続けている。
ぷに、とほっぺたをつついてみた。
「あぅ」
ぷにぷに。愛子は喜ぶばかりで、痛がったりしている様子は微塵もない。
特に問題はないようだ。安堵が心のうちに広がり、へなへなと崩れ落ちる。
「よ、よかったぁ……」
掴まり立ちがやっとなのにソファへよじ登れたのは、多分「登りたい」という意思が魔法として働いたためだろう。
しかし、気になるのは魔法そのものではなく、その『分布』だ。
海鳴の街は決して小規模ではないが、元々が魔力資質の持たない民族が集まっている国である。
それなのに、なのは、はやてに続いて、ついお隣さんまでもがリンカーコアを保有しているなど、常識では考えらない。
「んー、ま、いっか!」
いるものはいる。だったら、考えても仕方ない。
世の中、常識では考えられない不思議な出来事など、いくらでもあるのだ。
そう考えて、愛子の身体を抱き上げ、よしよしと揺すった。
「怖かった? 大丈夫?」
愛子は眠そうなあくびでそれに応え、むにゃむにゃと口を動かした。
エイミィも釣られてあくびを漏らし、今まさに眠りの世界に誘われている赤子へと、微笑みかけた。
「それじゃ、お風呂に入って寝よっか」
「あぃ」

入浴というか、行水みたいなものになった。でも、たっぷりのシャワーでポカポカになった身体は、もう寒くない。
寝巻きに着替えさせ、二人で横になる。
チカ、チカ、チカ。針の刻む音が、今日だけは優しい。
『さぁ、おやすみの時間だよ──』
愛子の身体をぽんぽんと柔らかく叩きながら、子守唄を口ずさむ。
リミエッタ家に代々伝わるという、秘伝の歌だ。
たちどころに泣く子も黙り、瞬く間に楽しい夢の世界へ連れて行ってくれるという。
幼い頃のエイミィは、この歌に何度助けられただろうか。
『素敵なレディになる夢を見てほしいよ──』
うとうとと夢と現の間を行ったり来たりしていた愛子だったが、やがて目を閉じて、すぅすぅと寝息を立て始めた。
その寝顔には、安らかな顔が浮かんでいた。きっと、良い夢に巡り会えたのだろう。
「おやすみ、愛子……」
エイミィもすぐに、隣の幼子に連れるようにして寝入った。
夢の中では、ずっとクロノと遊んでいた。まるで、子供の頃に戻ったみたいに……

***

「ん……朝か」
愛子のわんわん泣く声で、エイミィは目が覚めた。
時計をひっくり返して時間を確かめる。ちょっと遅いけど、お休みの日ならそこまで気にする時間帯でもない。
「あー、どうしたの?」
必死にあやしているうちに、おしめの替えが必要なことに気付いた。
まだまだ慣れない手つきで取り替えると、続いてミルクを作って飲ませた。
ふざけて母乳を上げる真似をしたが、何も出てこないと知ると愛子にそっぽを向かれた。ちょっと悔しい。
朝のシャワーを軽く浴び、食事を作る。ベーコンエッグにトースト、サラダにコーヒーと至極オーソドックスなものだ。
食べ終り、さあこれから掃除でもするかなと思っていたところ、チャイムが鳴った。
時は午前十時半過ぎ。リンディやクロノが帰ってくるには、少し早い。
誰だろうと扉を開けると、それはお隣さん夫婦だった。
「大変遅くなりました。愛子を引き取りに来たのですが……」
「あー、はいはい。大丈夫、ずっといい子にしてくれてましたよ」
昨日のソファ事件のことは、口に出さないでおく。
もし彼女の魔力が何かしらの影響を持った日には、きっとリンディが上手く対処してくれるだろう。
奥から愛子を連れてきて、母親に渡す。すると、本当に恐悦した顔で頭を下げられた。
「この度はありがとうございました。少ないですが、御礼を」
エイミィは封筒と菓子折りを貰った。
封筒の中身は大体予想がついたので、返そうとすると、今度は父親にも頭を下げられた。
「ほんの心持ちばかりです、どうか受け取って下さい」
そう言われては、突き返す理由もない。エイミィは戸惑いつつも礼を述べると、母親の目は愛子に移った。
愛子もまた、生みの親を見返す。
「あなた、エイミィさんを困らせたりしなかったでしょうね?」
「あぃ!」
一日ぶりに会えたのは、彼女にとっては千秋の隔たりがあるようで、喜びを満面に表している。
『ママ、パパ』としきりに口ずさみながら、その腕に抱かれている。
見ているだけで、心が和やかになりそうだ。
「ママ、ママ…?」
と、その時、愛子はエイミィと母親の姿を同時にキョロキョロと見回した。
そして、高らかに宣言する。
「ママ!」

「こ、こら、エイミィさんが困ってるでしょ」
母親は必死にたしなめているようだが、エイミィは全然困っていない。
むしろ、何か嬉しいものが心にこみ上げてきた。認められた、そんな気がした。
「別にいいですよ、あたしがママでも。ね、愛子?」
「あぅ!」
更にひとしきりのお礼を立て続けに言われ、程なくして二人は家の中に戻ったが、
エイミィはその場に佇んだまま、心頭から湧き上がってくる得も言えぬ興奮に胸を躍らせていた。
「またいつでも預けに来て下さい。私の都合さえ合えば、もう大歓迎ですから! ね、愛子」
「きゃっ、きゃっ!」
はしゃぐ愛子と別れるのは、一抹の寂しさがあった。でも、会おうと思えばいつでも会える。
なんたって、すぐお隣なのだ。
「あたしがママ、かあ」
一日ママだった。子育ての苦労を、これっぽっちしか分かっていない。
でも、子供は物凄く可愛かった。いつの日か、本当の意味で『ママ』になれる日が、凄く楽しみだ。
そして、その時、未来の旦那さんは。
「え、あ、もしかして……クロノ君?」
ぱっと目に浮かんできたのが彼だったものだから、つい顔が真っ赤になってしまった。
とはいえ、半分以上同棲しているようなものだし、裸とか何回も見た気がする。見られた気もする。むしろ見せた気もする。
驚きと羞恥が先に勝っていて勃たれなかったのは、乙女として負けた気がしたが。
グッと拳に力を込めていると、クロノとリンディが丁度帰ってきたようだ。予定より少し早い。
「おかえりなさい、クロノ君」
姉ぶって、頭を撫で撫でしてやる。
背の高くなってきたクロノにいつまで通用するか、不安になってきたが、リンディは相変わらず微笑んでいる。
「これで跡継ぎは安泰ね……」
「ん、何か言いましたか?」
「いいえぇ何でも?」
リンディの呟きは聞こえなかったが、とにかく二人とも腹ペコのはずなのだ。
我先に家に戻ったエイミィは、腕によりをかけて昼食に取り掛かった。
「さあ、ちょっとだけ待っててね。今すぐ美味しいご飯、作るから!」

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