昭和5*年。ある秋晴れの土手。
 鉄筋コンクリートがそろそろ珍しくなくなってきて、1ドルが250円に届いていた頃。
「かなたー、こっちこっちー!」
「かなたちゃーん、早く来てねー!」
「速いよ、そう君。ちょっと待って──きゃあっ」
 まだまだ新しいセーラー服を着た小さな女の子と、少しずつ汚れ始めた学ランを着た大きな男の子が、走っていた。 もう一人、土手でポニーテールとスカートを揺らしながら、精一杯手を振っている少女もいる。が、 女の子が一人転んで、男の子の動きが止まった。悲鳴と共に『そう君』と呼ばれた男の子が振り返り、転んだ女の子に走り寄る。
「かなた、大丈夫か?」
「大丈夫だけど、そう君、速いよ〜」
 プクッと頬を膨らませて、『かなた』と呼ばれた少女は立ち上がろうとして、膝を折った。
「どうした、かなた!?」
「足を挫いちゃったみたい……」
 泥こそついてはいないものの、膝頭を擦り剥いて、うっすらと血が滲んでいた。そこに足首を捻挫したとなると、
『そう君』はしゃがみこんで口を開いた。
「な、何するのそう君?」
「こういうのはな、ツバつけとけば治るんだよ」
 そう言ってかなたの膝に唇を触れさせたのだから、たちまちかなたの顔は真赤になった。
「そそそ、そう君、な、なにやってるの!?」
「こうして舐めときゃ良いんだって」
 そして砂混じりの唾液をペッと吐くと、かなたの腕を取って立ち上がった。
「ほら、掴まれ」
「掴まれって……そう君、どうするの?」
「いいから早く」
「う、うん」
 『そう君』はかなたに肩へと手を回させ、首を通してしっかりと掴ませた。すると『そう君』は徐に座り込み、かなたの両太股を抱えて立ち上がった。
 かなたが悲鳴を出す暇も与えず、『そう君』は颯爽と走り出した。背負っていた鞄は今、歯でガッチリと咥えている有様で、かなたの鞄は胸に抱えていた。
 二人が走り出すと、先に河原まで下りていた少女が手を振りながら叫んだ。
「ほらほらー、早くしないと遅れちゃうよー!」
「おーう、あっえおー!!」
 恐らく『待ってろー』だと思われる声を閉じた歯の間から搾り出すと、一層スピードを上げて土手を駆け下りていった。

「おそーい、泉君。かなたちゃん軽いんだから、もっとスピード出しなさいよね」
「おい、おい。はるか、それはないん、じゃないか? はぁ、はぁ……」
 ビシッと指を突きつけられたそうじろうは、息も絶え絶えに呟いた。いくらかなたが軽いとはいえ、鞄を歯で挟んだ上に走るのは重労働が過ぎる。
「それに、かなたちゃん真赤だよ」
「え?」
 後ろを振り向くと、太股を抱えられたかなたが首まで紅に染まってぼけらっとしていた。 目の焦点は合っていない。身体を降ろした後もぺたんと座り込んで、二人が目の前で手をひらひらさせても、無反応だった。
「はるか、これは……俺が悪いのか?」
「ええ、悪いわね」
 『はるか』と呼ばれた少女は辛辣に言うとかなたの傍らまで歩いていき、ほっぺたをむにーっとつねった。かなたにはそれで効いたらしく、涙目になって抗議する。
「はるはーん、はんでふねるのー?」
 はるかはそれが面白いと思ったらしく、『はめへー』と繰り返すかなたの頬をうにうにと弄ぶ。
「なぁ、はるか。お前の方がひどくないか?」
「え、何が?」
 ケタケタと如何にも楽しそうな笑い声を上げた後、かなたを解放するはるか。かなた本人はそれで正気に帰ったのか、
「ひどいよ、はるちゃん……」と拗ねた。
「あのね、かなたちゃん。そうでもしないといつまでもここに座ってたでしょ? まったくウブなんだから、もう」
 抓った場所を労わるように擦るはるかと、何も出来ずに事の成り行きを見守るだけのそうじろう。苦笑いを浮かべて立ち上がろうとしてまたふらつき、支えてもらうかなた。
「いつまでもこんな日が続けばいいね、泉君、かなたちゃん」
「そうだな、はるか」
 冗談を言い合って笑い合ううちに、はるかが西の空を大きく指した。
「ほら、見えた!!」
 指の先には、先程のかなたに負けず劣らずの真赤な太陽が雲の切れ目から顔を出して、今まさに沈もうとしていた。 お互いの顔を見ると、皆々オレンジ色に染まっていて、些細な顔色の変化ならもう読み取れないほどだった。
 夕焼け。もうじき高層ビルが立ち並びそうな気配を帯びていて、ここからの景色はいつまでも見れる程、ありふれた存在ではもうなくなっていた。
「ねーねー、もしマンションが建っちゃったらさ、みんなでそこに住まない?」
「あ、それグッドアイディア! いいな、いいよ、はるか!」
 早速そうじろうは同意を示した。もし三人の日々がいつまでも終らないとしたら、どんなにか楽しいだろう。
「でしょ? 交代でご飯作って、家賃とかも三人で頑張って払ってさ……そうだなぁ、大学になったら引っ越そう!」
「気が早いね、はるちゃん。ひょっとしたら就職するかもしれないんだよ?」
 目を落とせば川の水面も橙色に輝き、横を向けば電車が高架線の上をガタゴトと走り去るのが見える。 銀色の車体もまたオレンジを照り返して、川向こうのグラウンドも、その向こうの屋根も、そのずっと向こうの雲まで、何もかも鮮やかに煌いていた。
「いやいや、かなたちゃんの場合は……泉君と結婚してお嫁さんだ、人妻だー!!」
「ななっ、何言ってるの、はるちゃん!?」
「そうなれば扶養何とか? で家賃払わなくても何とかなるかもねー。でもそうしたら私は独身かー、誰かステキな男の子を見つけなきゃね」
「は、はるちゃん!」
「冗談だよ。私たちはいつまでも一緒。ね、泉君?」
「あ、ああ」
 だが、『もしかなたと結婚できたら……』という想いは、少しずつそうじろうの心に広がっていった。 『いやいや、はるかも悪くないんじゃないか?』と心のどこかが反論して、思わず口に出してしまった。
「俺は、どっちも選べないなぁ……」
 それを敏く聞きつけたはるかは尋問を開始する。
「それじゃ、どっちと結婚するのよ?」
「選べない、俺には、選べない……!」
 血の涙を流すそうじろうに、更なる追い討ちがかなたからかかる。
「そう君、私たちのこと、嫌い?」
 そう言われて、慌ててそうじろうは修正に入った。
「そ、そんなことはないぞ! ただ、一人としか結婚できない世の中を変えてやりたいだけだ」
 調子のいいことを、とはるかに小突かれながら、三人は夕日と、夕日に染まる世界をいつまでも眺めていた。 東の空はもう藍色になりかけていて、そこに一筋伸びている飛行機雲が少しずつぼやけていくのを、三人は見つめていた。


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