そしてすっかり日が暮れると、はるかは二人を夕食に誘った。学校を出てから『先に行ってて』と言ってどこかへ消えたのは、その食材を買うためだったらしい。そうじろうが袋の中をのぞくと、確かに将来『料理』になりそうなものが入っていた。
「今日、お父さんもお母さんもいなくてね、一人なんだけど、三人分のご飯を作った方が美味しいから」というのが理由だが、かなたは本音をちゃんと知っていた。
「はるちゃんってね、すっごく怖がりで、一人でトイレに行くのがやっとなの」とは、かなたの弁。実際問題、はるかは修学旅行の時もわざわざ隣で寝ていたかなたを起こして、旅館という施設では廊下に出る必要すらないトイレへと無理に付き添わせたくらいだった。
「元気印のはるかが、ねぇ……信じられない」
「それは昼のうちだけみたい」
 はるかの家はそうじろうやかなたの家とは学校を挟んで反対側にあり、更に土手ははるかの家から近かった。だから、二人は家へ帰らずにそのまま土手を──かなたの鞄ははるかに持たせ、そうじろうは胸に鞄を抱えて──登り、電車の立てる音がけたたましい高架線の下を潜って、もう暗くなった路地から団地の一角へと滑り込んだ。そしてそのままはるかの家まで行き、家の電話を借りて、各々の家へ『今日ははるかの家で食べるから』と伝えた。
 家に入る直前に、そうじろうはかなたの痛そうな顔を見るのが辛くて、はるかに聞いた。
「はるか、包帯とか、とにかくテーピングできるもの持ってないか?」
「あ、はいはい。ちょっと待っててね」
 返事のない『ただいま』もそこそこに、はるかは家の中へ入って行き、薬箱を持ってトテトテと玄関に戻ってきた。
「いや、家の中でいいから……」
「あ、そうだったね、ごめんごめん」
 てへへ、と笑ってはるかは引き返していく。それが薬箱のあった方向だったものだから、
「だから、しまうんじゃないよ!」
「あー、そうだったそうだった」
無駄な二度手間が重なった。それでも、慣れた手つきで幼馴染の足首をテーピングする段になると、そうじろうは途端に真剣な顔になった。
「捻挫は下手するとずっと痛むからな、かなたは笑ってた方がいい」
「そう君……」
 手早いテーピングが終ったのを見届けると、はるかはエプロンを取り出して着込んだ。
「それじゃ、ちょっと待っててね。おいしいご飯作るから」
 そしてダイニングに二人を招き入れて椅子に座らせると、腕をまくり、気合を一つ入れて台所へ入っていった。
「おう、楽しみにしてる」
「楽しみだね、そう君」
 そう言ってテキパキと……否、はるかは相当にノロノロと準備を始めた。まるで他人の家にいて、どこに何があるのか良く分かっていないかのようにあっちこっちを歩き回って包丁、まな板、鍋などと取り出していた。洗米をするのもぎこちなく、誤って洗剤を入れようとするのを慌てたかなたに止められる始末で、炊飯器に至っては散々迷った挙句、「これだ!」と適当にボタンを押したが、明らかな間違いに気付くのはもう少し後のお話。
 そして、大根を輪切りのつもりで乱切りにしている最中、そうじろうがぼそっと言った言葉が、本格的な波乱の始まりだった。
「そういえば、お前の苗字って『樹本』だったんだな。忘れてた」
「あぁ、泉君それひどーい」
 後ろを振り向いた瞬間、打ち下ろした包丁は大根をすり抜けて、親指の爪に沿うように根元の皮膚を切り裂いた。
「う、うわぁっ!!」
 一瞬のことで思わずはるかは包丁を投げつけ、それは危うくそうじろうの耳たぶを突き抜けそうなギリギリの場所を、どういう訳かまっすぐ飛んでいって、壁に突き刺さった。そして包丁は自重で柄からポロリと床へ落ちた。ゴツ、という木の音に続いて、金属音が部屋に響く。
「そう君、大丈夫!?」
 そうじろうは直立不動で突っ立っていた。かなたに肩を軽く揺すられて、やっと恐怖世界から現実世界へ帰還した。
「い、今のは流石に死ぬかと思った……」
「そう君、大丈夫、どこも怪我してない!? あぁっ、はるちゃん、血出てる、大丈夫!? 救急車呼ぼうか?」
 かなたはすっかりパニックでさっぱり要領を得ない。逆に頭がまともになってきたそうじろうはかなたを宥めすかした。
「おい、かなた。俺は元気だ。はるかもちょっと指を切っただけだ。な、大丈夫だ」
 ボディビルダーのようにポーズを作って、そうじろうは自分が健全であることを全身で告げた。一方、はるかにも言う。
「いいか、はるか。料理が初めてならそう言えば良いだろ……かなた、ボケボケに見えて結構料理できるんだぞ?」
「そう君、ボケボケはちょっと私にシツレイじゃないかな?」
 ジト目で迫られるかなたに、「ああ、そうだな。かなたはそんなにボケてないよな」と曖昧な訂正をした。一方で完全に放置され気味のはるかは、自分の指をペロペロと舐めながら、
「とりあえず、その包丁取ってくれないかな……いたっ」
料理の続きをしようとして、指を押さえた。少々舐め取っただけでは止血しないほど傷は深かったようだ。
 それを見かねたかなたも現実に復帰して、他人の家ながらに陣頭指揮を執り始めた。
「まずは消毒ね。そう君、はるちゃんをお願い。私は料理を作る、から……?」
 制服のまま台所に入ったかなただったが、非常に不思議な光景に溢れていた。何故か乱切りにされている大根。まだ包装がかかったままの鶏肉。塩抜きされていない乾燥ワカメ。小ぶりの白菜、ジャガイモ、豆腐。白菜にもジャガイモにも土がついたままで、豆腐は買ったままにボウルの中で水と遊んでいた。
「はるちゃん、何を作ろうとしてたの……?」
「えーっとね、肉じゃがと、豆腐の味噌汁」
 あっけからんとはるかは言うが、材料は微妙以上に合致していない。
「それじゃ、鶏肉と白菜はどう使うの?」
「え、肉じゃがの肉って鶏肉じゃないの? あとジャガイモの他に入ってるアレって白菜でしょ? あと大根」
「お前は普段どんな肉じゃがを食ってるんだ……豚肉だろう、肉じゃがは。それに一緒に入ってるのはタマネギだ」
 どうやら、食事に関する知識は『出された食事を受け取るだけ』のものだったらしい。味噌汁に入れる具が昆布ではなくワカメだと分かったのがむしろ不思議なくらいだった。
「あれ、そういえば味噌汁のダシは?」
「え、ダシ? なにそれ?」
「……ダメだこりゃ」
 流行りの言葉でオチを括った後、そうじろうははるかを連れて居間に引っ込んだ。暫くしてマキロンが沁みる悲鳴が聞こえてきたが、かなたは溜息を吐くばかりだった。
「さあ、何を作ろうかしら……豆腐の味噌汁はいいとしても、肉じゃがという訳には……ん?」
 何故か、ブルームがついているキュウリが乱切りで皿に乗っていた。これは一体何に使うのか最初は想像しかねたが、
「まさか、味噌汁に入れる気だったんじゃ……」
今考えれば十分ありえる話なのが、かなたをぞーっとさせた。ひょっとしてワカメをダシに使う気だったのだろうかと思うと、断って家に帰っていたら次の日にはるかが欠席することも、簡単に思い浮かんだ。
 しばらく頭を捻っていたかなただったが、ふと思いついて手をパチンと叩き、早速作業に取り掛かった。
「これなら大丈夫だわ!」
 戸棚を探すと、ちゃんと調味料も道具も一式揃っていた。かなたは目の前の材料に挑戦の眼差しを向けた。
「さぁ、あなたたちを今から美味しく料理しますからね〜」
 心なしか、材料たちが『助かった』と安堵しているように見えたのは、かなたの気のせいではなかったのかもしれない。それは、既に切られた大根とキュウリも例外ではなかった。

 居間に、心地良く刻まれる包丁の軽いリズムが聞こえてくる。それが終ると、ガスコンロに火を点けるカチッという音がして、何かを水の中に入れたのがはっきり聞こえた。
「何を作ってるんだろうな……」
「分からないけど、多分肉じゃがじゃないモノ」
「あはは、それは言えてるな」
「むぅ……泉君のバカ」
 本人としては事実を肯定したに過ぎない言葉で、はるかは拗ねてしまった。親指に巻かれた包帯を解けないように弄りながら、そうじろうにプイと背中を向ける。
「おいしいご飯、作ろうと思ったのに……」
「わ、悪かったよ」
「ホントに悪いと思ってる?」
「あ、ああ」
 それじゃ許してあげる、と言ってはるかはそうじろうへと向き直った。なんということもない、いつもの学校生活、そんな他愛ないおしゃべりをしているうちに、えも言えぬ匂いが家中に広がっていった。
「お、そろそろできるんじゃないか?」
「そうかもねー……」
 給食を食べてから相当の時間が経っているはずで、誰も彼も腹ペコのはずなのだが、はるかは曖昧に返事をした。そして、さっきの話を忌避したのか、それとも土手の続きなのか、食べ物の代りに、突然話題を切り替えた。
「ねぇ、泉君。あたしと、かなたちゃん。結婚するなら、どっちがいい? いーい、絶対、どっちか。『どっちも』はなし。
『どっちとも結婚したくない』も、もちろんダメ」
「え……?」
 そうじろうの心臓が、バクンと動いた。そのままどんどん鼓動が強くなっていって、頭に血が昇っていく。のぼせかかった頭を必死に深呼吸をして、この前習ったばかりの『素数』を数えて、何とか何とか落ち着きを取り戻そうとした。
「ねぇ、どっち?」
 ぐい、と顔を近づけて、はるかは詰問する。
「どっち!? あたし? かなたちゃん?」
 どうしてこんなにも強い口調で言われるのか、まるで今のそうじろうには理解できなかったが、顔を背けて、ボソリと言った。
「か……かなた。かなた……かな、多分。いや、かなただ」
「どうして!?」
 尚も続く詰問に、そうじろうは辟易した。だが、ここではっきりさせておかないと、はるかが暫く口も利かない状態になるのを、そうじろうは良く知っていた。だから、不自然に思われないくらいゆっくり、ゆっくりそろそろと答えた。
「そうだな……かなたの方が女の子っぽい、から……?」
 そうじろうは、未来の自分にぶん殴られそうな、最悪の回答をしてしまった。
「……」
 答えがない。はるかは何も返さない。恐る恐るそうじろうがはるかの方を向くと、目に涙をいっぱい溜めたはるかが、突き刺すような鋭い視線をそうじろうに送っていた。
「は、はるか……?」
「確かめてみる?」
 そうじろうがはるかの言葉を全く飲み込めないでいる間に、傷のない左手でそうじろうの左手を取った。そしてそのまま、自分の胸に当てる。
「ほら。ブラの上からじゃ分からないけど、ちゃんとあたしだって胸、あるんだよ?」
 そうじろうの手を掴んだまま、服の上から胸のラインを行ったり来たりさせる。突き刺すような視線は今や緩み、潤んだ瞳でそうじろうを見つめる。肝心のそうじろうは、ゴクリと唾を飲み込んで、口を真一文字に結んでいた。
 そして、
「いい、泉君。もしかなたちゃん以外と結婚したりしたら、」
そうじろうの口へと、自らの唇を寄せていく。
「絶対許さないからね……」
 涙の混じったファーストキスは、そうじろうにとってもはるかにとっても、ちょっぴりしょっぱかった。


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