Prologue: The snow devil

「どこまで、来たんだろう……」
 雪原を歩く、一人の少女がいる。
 見渡す限り、白一色に覆われた世界。見上げた空もまた灰色で、そこから情け容赦なく吹き付けるのは、足元にある忌々しきものとまったく同じ白──雪。
 風流さの欠片もない、あるのは感覚がなくなりそうなほど凍えた指先だけだ。既に体力は限界値を遥かに突破し、生きたいという願望とここで死ぬ訳にはいかないという宿望だけが、彼女を突き動かしていた。
 しかし世界はどこまでも非情であった。眼前には天を衝かんばかりの大山が聳えている。如何なる方法でも、少女はそれを踏破しなければならなかった。
 進みは、果てしなく遅い。上からは雪が吹き荒れ、下からも積もったそれらが風に舞い上がって顔に叩きつけてくる。前に出したはずの足が、放っておけば風の力で勝手に後ろに行ってしまう有様だった。既に膝から下の感覚はない。足首は凍りつき、最悪の場合はいずれ全身を氷像にされてしまうだろう。
「あっ!」
 足に纏わりつくでもない、ただ底なし沼のようにじっと獲物を待っていた雪が今、クレバスとなって少女を捕えた。
 それは、幸運なことに深くなく、しかもどこかに通じているようだった。入り口に溜まった雪がクッションとなって、多少尻を痛めたに留まった。
 少女は上を見上げた。自力で這い上がるには高く、かといって氷に囲まれた暗闇の洞窟に入るだけの体力もない。
「……休もう」
 下した決断は、現状の維持。溶けた形跡のまったくない粉雪と、未だそれを降らせ続ける狂おしき空。クレバスが突然轟音を立てて崩れるということも、表面の雪が雪崩となって谷底まで滑り落ちていくということも、当面なさそうだった。下手すると、何万年でもこのままかもしれない。
 束の間の休息を取り、雪を溶かして僅かに喉を潤す。すると、僅かな風を感じた。どうやら、奥から吹いてくるらしい。
 少女は、一つの決断を下した。
 息を整え、気合を一つ入れると、大口を開けている闇へと、足を踏み入れた。どこかに通じているかもしれない。何より、ここには吹雪もなければ断崖絶壁もない。

 手探りで一歩一歩進む。何も見えないが、却ってその方が好都合だったかもしれない。光のない世界で少女は、今までの自分を思い返していた。
 脳裏に浮かぶのは、幼い頃の思い出。少女とてまだうら若き年頃であるが、その小さな身体には既に並の人間では蓄えられぬ程の記憶を携えていた。
 追憶の中でも、少女は凍えていた。回想の中でも、少女は震えていた。だが、誰も温めてはくれなかった。今も、温めてくれる相手はいない。コウモリの一匹でさえ。
 何時間経ったのかも分からなくなった。しかし、それでも光は見えなかった。
 足を滑らせ、手を滑らせ、身体のあちこちに打ち身を拵えたが、それでも少女は止まることを良しとしなかった。
 動かなければ死ぬ、それだけは分かっていた。火を起こす手段も、まして持続させる手段もない。止まらば死、止まらずとも、死神の鎌は首に添えられている。
 身体は既にボロボロだった。視界の利かない世界で、いつ精神まで崩壊するか知れたものではない。少女は、かつての自分を思い出した。希望も、絶望もいらない。ただ、無だけがあればよかった頃の自分。暗闇はまさに過去の少女自身が欲していたものだった。
 裏切られたくないから、裏切りたくないから。何より、自分だけが信じられたから。でも、この山を越えなければならない。それが、「現在の」自分に与えられた使命なのだから。

 再び、眼前に幻視が現れた。
 無限に続くヒマワリ畑。少女へと向かって手を振る女性。黒一色に染まっていたはずの世界が、俄かに黄色で埋め尽くされていく。
 燦々と降り注ぐ陽光。煌く花びらという花びら。胸いっぱいに広がる、どこか懐かしい香り。そして、突き抜けて晴れ上がった夏の青空。
「──」
 少女は母の名を呼び、終に膝を衝いた。


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