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「おはようございます、アインハルトさんっ」
 銀髪の少女へ向かって、ヴィヴィオは挨拶する。頭半分よりも背の高い少女が振り向くと、改めてにっこりと微笑んだ。
「おはようございます、ヴィヴィオさん」
 立ち止まって軽くお辞儀をすると、アインハルトはまた歩きだした。その歩幅は広く、ヴィヴィオは着いていくので精一杯だった。
 よく分からないけれど、彼女には何か焦りのような感情を走らせていた。時計を見たが、これといって遅刻しそうな時間帯ではない。理由を聞こうとしたが、大分深刻そうな表情をしていたので止めた。今日それが解決すればよし、困ったことが起きてしまったのなら、ヴィヴィオでなくともノーヴェやチンクがいる。下手な追求はしないで、代りに一言だけ。
「あの、私の方が年下ですし、『ヴィヴィオ』って呼び捨てにして下さい」
 アインハルトは横にいたヴィヴィオを振り返って瞳をぱちくりした。そして今度は気まずそうに顔を俯けた後、ぼそりと言った。
「それではヴィヴィオ――初等部の正門はもう過ぎましたよ」
「えっ?」
 もう二度目である。ついでに、コロナとリオがヴィヴィオを後ろで呼んでいたと知るのは、本人に怒られた後だった。
 走りだしたヴィヴィオはアインハルトに手を振りながら、予鈴の鳴り響く後者へと駆け込んだ。
「ギリギリセーフだね、ヴィヴィオ。最初は応用数学だよ」
 辛くも担任との徒競走に勝ったらしい、教室に滑り込んで間もなく、のそりのそりと歴史の教師が入ってきた。

 一日の授業が終り、ヴィヴィオは教会へ向かう。今日はなのはが遅くまで帰ってこないことと、ユーノが泊まり勤務であることが一員だった。だが、もう一つ大きな理由がある。なのはをも超える低血圧ちゃんの友人に会いに行くためだ。
「ごきげんよう、イクス。今日もいい天気ですね」
「ヴィヴィオ、ごきげんよう。段々と過ごしやすい季節になってきましたね」
 イクスヴェリア。冥府の炎王にして、一介の少女。古代ベルカの兵器マリアージュの操手だった彼女は、機能不全でいつ目覚めるとも知れぬ永い眠りに就いていた……というのはつい先日までの話で、『いつ』はほぼ丸一年ほどで終りを告げ、あっさりと起きてしまった。但しそう思っていたのは本人ばかりで、ヴィヴィオは飛び上がって喜び、スバルに至っては泣きながら彼女を抱きしめていたくらいだ。それが、地球でクリスマスと呼ばれている時期の出来事。それから大体、半年ほどになる。
 その半年で、イクスヴェリアはすっかり調子を取り戻していた。どこの機能に問題があったのかさえ、今となっては医者でも分からないくらい。人体の奇跡を噛み締めて、二人は出された紅茶を飲み、女同士のおしゃべりに花を咲かせていた。
「最近、スバルが来てくれなくて寂しいです。忙しいのはもちろん分かっているのですが、こう、胸がキュンと……」
「うぅ、私にはまだちょっと早い話題ですね」
 スバルとイクスヴェリアが『デキている』というのは、本人たちが隠したがらないのも手伝ってすっかり周知の事実だった。それどころか、スバルは「聖王の妻」という称号を得て、敬虔なベルカの人々に握手を求められたり拝められたり、何かと大変だと聞く。
「風の便りに聞いたのですが、ヴィヴィオの母君が住んでいた世界では、『俺の嫁』と表現するようですね。なるほど、独占欲というものが際限ないことを端的に示していますね」
「あ、あはは……」
 そんなマイナーな話まで耳に入れる辺り、イクスヴェリアも相当の耳年増である。というよりか、もう信じられないほど話は先に進んでいるのだった。
 はぁ、と溜め息をついて、イクスヴェリアは外を見上げた。雲が二つ三つ、速い気流に乗ってどこかへと飛んで行き、鳥が何羽か軒先に止まっていた。
「つまり、スバルは私の嫁です。異論は認めません」
「は、はぁ……」
 お互い特殊な出生を持っている。だのに、ヴィヴィオは普通よりちょっと大人びたくらいの成長度で、イクスヴェリアは明らかに二十代後半か、さもなくば三十代の思考回路で動いている。なんと呼べばいいのか、こういうのは明らかに──
「ところでイクス、年齢詐称してないよね?」
「いえ、その件については黙秘権を行使したいです」
 万事この調子である。同世代で黙秘権なんて誰も使わない。確かに古代ベルカの時代から考えれば二人とも三百歳を軽く超える計算になるが、どう考えてもその発想はおかしい。
「ヴィヴィオ陛下ー、イクス陛下ー、そろそろご飯の時間だよ」
 ドアをノックしてひょっこりと現れたのはセイン。かつて時空を股にかけた大犯罪を画策していたドクター・スカリエッティの寵児、第六番。半袖にした修道服と短めのスカートで現れた彼女は、どこか他のナンバーズに比べて接しやすい愛嬌がある。恐らくは、言葉の端々に少女の面影を強く残しているからだろう。教会騎士のカリムは、壮麗な雰囲気があるが、セインは元々修道女ではなかったせいか、気軽に話しかけられる相手の一人だった。
「行きましょうか、ヴィヴィオ」
「ええ、イクス」
 食卓は、実に静かなものだった。十字を切って、ナイフとフォークの音が時折かちゃかちゃと小さな音を立てるだけの、厳粛な儀式。元々から教会にいた面々と、旧い価値観を持っているイクスヴェリアはともかく、特にセインは何かを喋りたくてうずうずしているのが分かった。ただ場の雰囲気が何を喋るにも不適切なようで、結局何も言い出すことなくナイフとフォークを揃えた。
 夜が深夜に変わるより前に、ヴィヴィオは聖王教会を後にした。散歩がしたいという謎の要望で、カリムが付き添うことになった。
 人通りはまだいくらか残っているもののまばらで、時々遠くで獣が遠吠えしているのが聞こえた。優雅な雰囲気さえ纏わせてゆっくりと歩くカリムの隣を、ヴィヴィオはとことこと足を進める。
「さて、ヴィヴィオ。私がこうやってあなたと二人きりになるのは初めてかしら?」
「えーっと……そうですね、多分初めてです」
 カリムはそれきりまた黙り込んだ。何から話していいのか分からない複雑な表情と、それ以上に話してもいいことと悪いことを頭の中で整理しているようだった。
「実はね──いえ、その前に確認しておきましょう。念のため、ね。ヴィヴィオは昔の、オリヴィエ聖王女の記憶はないということでいいわね?」
「はい、私は私が『ヴィヴィオ』であることしか覚えていません」
 ヴィヴィオ。ヴィヴィオ・高町・スクライア。それが本名。何年か前のこと、なのはのプロポーズが『苗字を下さい』というものだったらしく、かつてファミリーネームだった「高町」はミドルネームとして残ることになった。
 そして、なのはと出会うより前の記憶はない。機動六課という組織も、もう殆ど忘却の彼方だった。
「そう、ありがとう。話を続けるけれど、これは未だ秘密でいてちょうだい。いいわね?」
「はい」
 深刻な顔は、朝のアインハルトを彷彿とさせた。確証はないが、もしかすると同じ話題で困っているのかもしれない。
「実はね、ベルカの地に脱獄囚がいるようなのよ」
「え、ええっ!」
 素っ頓狂なヴィヴィオの声が通りに響いた。人差し指を唇に当てたカリムを見て、慌てて口元を手で覆う。心が落ち着いてから、今度は小声で聞き返す。
「ほ、本当なんですか?」
「ええ。今日の夕方、検察から連絡があったわ。明日裁判が開かれるという日に、隙を突いて逃げ出したらしいわ。しかも、逮捕時の持ち物も全部まとめて盗まれてしまったようだ、って」
 脱獄。ミッドチルダの拘置所は厳しい警備を敷いていると聞く。脱獄囚は旧暦から数えても片手で足りると、以前ティアが話していた。
『まず、被疑者は魔力を封じる手錠をかけられてから牢の中に入るわ。持ち物は一旦全部没収されて、その中にロストロギアなんかがあったら、時空管理局に通報する。そうすれば専門の局員が来て回収するの』
「カリムさん、その、持ち物っていうのは……」
 恐る恐る聞く。ただの殺人鬼ならば易しい、むしろそんな人間は塀の外に出られないはずなのだ。その脱獄囚が逃げ出したからには、何らかの裏技を使っている。
 長い間、カリムの口は重かった。言いたくない、その戸惑いと躊躇いが見える。やがて開いた口から出てきたのは、あまりにも曖昧な一言だった。
「古代ミッドのロストロギアです。今まで、幾人もの捜査官や執務官がその行方を追って、そしてつい先日にようやく見つけたものです。それが奪って逃走されたとあってはぞっとしない話ですからね、メディアにはしばらくこのことを伏せておく必要があると感じたのでしょう。ただ、もう一つ理由があるようですが……」
 それきり、またカリムは黙り込んでしまった。そして今度は『喋らない』と腹を決めてしまったらしく、次に出てきたのは警句だった。
「私がこの話をしたのは、あなたたちを狙ってくるかもしれないし、もしあなた達の前に彼女らが現れた時に、動揺しないで逃げられるようにと思ったからなのよ。間違っても立ち向かったりしないで下さいね、何故なら……」
 言いかけて、頭痛がしたように額を押さえる。疑問を隠せずにいると、カリムは諦観の眼差しを星空に向けた。
「いいですか、決して、決して、はやてやフェイト、なのは──あなたのママのように無鉄砲になってはいけませんよ! あなたはまだまだ子供、一人の女の子で、形の上であろうと『聖王陛下』なのですから」
 語気は次第に弱まっていった。なのはの姿を思い出したのがすぐに分かり、ちょっぴり悲しくなる。前科はないのに。
「さあ、着きましたね。知るべき人にはいずれ正式な命令が下るでしょうから、ご両親にも誰にも話さないと約束して下さい」
「はい。誰にも話しません」
 力強く宣言すると、カリムは腰をかがめてヴィヴィオと同じ高さになった。頬を優しく挟み込んで、柔和な笑みを浮かべられる。
「おやすみなさい、ヴィヴィオ。よい夢を」
「おやすみなさい、カリムさん」
 家のドアを開け、中に入ってからこっそりと振り返った。
 カリムが早歩きに帰りながら端末を開き、弄っているのが薄ぼんやりと見えた。

 帰宅して間もなく、なのはも帰ってきた。すっかり子煩悩なこの母親は、ヴィヴィオの姿を認めるなり抱き上げて頬ずりしてくる。それが柔らかくて気持ちよくて、こんなスキンシップが何よりも好きだった。
「はぁーっ、家ってのんびりするねぇ」
 なのははオンとオフの切り替わりが激しい。時空管理局ではそれはそれは鬼教官、普通の顔で普通ではない訓練をさせる教導官として物凄く有名だが、一度家の敷居を跨ごうものならばそこにいるのはバカップルの片割れだ。そして今日はユーノは止まり勤務。すなわち──
「あーもう! ユーノ君成分が取れない! 今日は早く寝よう!」
 これである。聞き分けのいい娘だったから良かったものの、そうでなかったらどうするつもりだったのだろうか。毎度毎度の光景とはいえ、何とかならないのか。
「ヴィヴィオ、先にお風呂入る?」
 こんな時は、他のことに意識を向けて欲求不満を昇華させるのが一番だ。なのはの手を引いて、浴室に向かう。
「一緒に入ろう、ママ!」
 ご機嫌とまではいかなくとも、一応なのはのテンションは普通に収まってくれた。ただこれも、管理局で激務をこなしているからこその反動だと思えば、何とも思わない。それよりも、こんなに仲のいい母子であることが誇らしいくらいだった。
 今日はもう少し起きて仕事がしたいとなのはが言うので、先に寝ることにした。明らかに仕事でない声が聞こえてきたが、この際全部無視することにした。

 翌朝。のそりのそりと起きたヴィヴィオが時計を見ると──今すぐ全速力で走らなければ学校に間に合わない時間帯だった。一瞬で意識を目覚めさせたヴィヴィオは光の速さで着替え、部屋を飛び出す。朝のジョギングは登校中に済ませるしかない。テーブルの上に置かれたメモ用紙は、朝早く出て行ったなのはの書き置きだった。その隣には、既に冷めた紅茶と硬くなったトースト、それから目玉焼きがあった。
「急な呼び出しが会ったので起こそうとしたのですが、何度ノックしてもうんうん唸るだけだったので、ママは先に仕事に行きます。遅刻しないでね。ママより」
 なんてこったい。低血圧ここに極まれり。起こされたことすら思い出せないとは。ありえない、何かの間違いではないのか。
 とにかく、紅茶を一気に飲み干すと、トーストを口にくわえて家を飛び出した。相当格好悪いが、午前中を腹ペコで過ごすよりは幾分マシだ。ジャムの瓶はあったけれど、開く暇もナイフを取り出す暇もなかった。
 そうして、ザンクトヒルデへの道程を半分ほど過ぎた頃。ヴィヴィオは角を曲がろうとして出会い頭に人とぶつかってしまった。半分だけ食べたトーストが口から離れて垣根をすり抜け、隣の庭に飛んでいった。
「ごっ、ごめんなさい!」
 ヴィヴィオ達は互いに尻餅を搗いていた。先に立ち上がって、倒れていた少女に手を伸ばす。
彼女の背格好はヴィヴィオよりほんの少しだけ高い程度だった。なのはよりもアインハルトよりも長く、膝まで伸びる紅い髪を払って、少女はにっこりと微笑んだ。顔は多量の髪に隠れてよく見えず、瞳の色さえ暗くて分からなかった。
「ごめんあそばせ。わたくし、急いでいたものですから──妹が見つからなくて」
「私こそごめんなさい、学校に遅れそうで……あっ! 早く行かなくちゃ!」
 ヴィヴィオはもう一度謝ると、少女を残して走り出した。今の一幕でますます遅刻が近くなってしまったのだ。自業自得だと自分を軽く呪いつつ、学校への道をひた走った。
「あらあら、あんまり急ぎますとまた人にぶつかってしまいますよ? ご注意遊ばせ!」
「あっ、ありがとうございます! ではではっ」
 ヴィヴィオはますます足を速めて息を切らすほどのスピードになった。だから、紅髪の少女が何を呟いたのかは全然聞こえなかった。
「面白い方ですこと、わたくしに『ごめんなさい』だなんて。それに色違いの瞳……懐かしいですわ、何年ぶりかしら。そうですわね、一度だけ見逃してあげましょう。リリウムにも報せなければなりませんわ。ふふふ、楽しみが一つ増えましたわ……」

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