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「恭也〜♪」
「こらやめろ、くっつくな」
なのはが遅番で翠屋の暖簾を下ろしていている頃、奥の方で何やら艶やかな声。
ナニやら、ではないのがせめてもの救いである。
声の主がルンルン気分でホールに顔を出すと、なのはは、あぁ恭也分を充分取ったんだなと確信した。
「フィアッセさん、そんなにおにーちゃんのこと好きですか?」
「YES!」
抱きついてくる、長身の女性。伸ばした金髪が鼻にかかり、少しくすぐったい。
フィアッセ・クリステラはなのはにも軽く頬ずりすると、ご機嫌な様子でテーブルを拭き、椅子を拭きと精力的に動き始めた。
「あっという間でしたね、結婚まで」
「そうね、桃子が準備をすっごいスピードでやってくれたから」

婚約宣言から入籍まで一週間、そこから式までは一ヵ月半ほどだったか。
とにかくめちゃくちゃ早かったのを、よく覚えている。
「なのちゃーん、フィアッセさーん、俺もう行くよー」
奥から晶の声が聞こえて、なのはは返事をした。
自転車のベルを鳴らして、彼女が店の前を通りすぎていくのが見えた。
レンは早番で今はいないから、これで店の中に残っているのは三人きりになった。
「わたし達も、早く帰りましょう?」
フィアッセに笑いかけて、最後のテーブルを拭き終る。
夜道は危ないから云々と、きつく恭也に止められている以上、一人では帰れないのだ。
なのはは布巾を洗って干すと、手をはーはー暖めた。この季節、水は指が動かなくなるほど冷たい。
――そのかじかんだ手を、フィアッセの両手が包み込んだ。
「あっ……」
「人を温めるのはね、同じ人の温もりが一番よ」
ふんわりと触れた手は透き通るように綺麗で、どうじにどこか甘い香りも漂ってきていた。
なるほど……となのはは頷いた。優しくて綺麗で、一体誰が放っておくというんだろう。
「それじゃ、帰りましょ。桃子が美味しいご飯作って待ってるから♪」
「はいっ」
フィアッセは、結婚前から半分高町家に住んでいるような状態だったが、結婚を機にアイリーンの元を離れ、同棲し始めた。
いつか独立するとは言うものの、桃子の強烈な反対に遭って──「まだ家にいなさい。お金だってないんだから」──、
その夢は叶わずにいる。
そんな訳で、今は恭也の部屋に布団を引いている……という話だが、その実同じ布団で寝ているのを何度も目撃されている。
本人はどこ吹く風でニコニコしていたが、兄はほんのり辟易しているようだった。
同じ布団で寝ていることそのものではなく、それを周りがネタにしていることに対して、だが。
これまた結婚と同時に買った車で、なのはは後部座席に乗り込む。
助手席にはフィアッセが乗り込んで、恭也は運転席。
「おにーちゃん、ホントいつの間に免許取ったの?」
「ああ、忍に教わったんだ。あいつの庭、異常に広いからな」
本来の教習時間に加えて、誰もいないとはいえ練習できる場所があれば、それはすぐに上達するだろう。
それに、高町恭也である。あっという間に上手くなった姿を想像するのは簡単だった。
「恭也、あんまりスピード出しちゃダメだよ」
「ああ、分かってる」
ゆっくりと滑り出した車に揺られて、なのははいつの間にかこっくり船を漕いでいた。

駐車場に車を入れた時、既に台所の方からいい匂いが立ち込めていた。
玄関をくぐれば、レンがぱたぱたとスリッパを鳴らして歩いてきた。
「おかえり、なのちゃん、フィアッセさん、お師匠」
「ただいま〜」
靴を脱ぐなり、フィアッセは恭也の腕にひしっと抱きついた。
満更でもない様子の恭也に、レンはなのはの耳にひそひそと話しかけた。
「やっぱり、お師匠は好きな人のこととなるとホント甘々やね」
「そうだねぇ」
手洗いうがい、ダイニングへと入っていくと、既に料理の数々がテーブルに並べられていた。
すっかり喜んだフィアッセが桃子に抱きつくと、母はその背中をぽんぽん叩きながら、みんなに聞こえるような声で言った。
「こらこら、あなたはもう一人だけの身体じゃないのよ」
「……え!?」
「は!?」
場にいた人間のうち、恭也以外の全員が腰を抜かした。
「え、フィアッセさん、赤ちゃんできたんですか?」
すっとんきょうな擦れ声になった晶の質問に、彼女ははにかみながら答えた。
その表情は、まるで天界よりの使者だった。
「そうよ。わたしと恭也の愛が、このお腹にいっぱい詰まってるの」
ホントはもっと早く言うつもりだったけど、と付け加えると、フィアッセはゆっくりと胎を撫でた。
まだまだ小さい彼女の子は、早くも力強い脈を打っているかのようだった。
「めいっぱいお祝いせんとあかんな」
「そうだな」
「おめでとう、フィアッセ」
口々にお祝いの言葉を述べて、全員がテーブルに着いた。
なのは、レン、そして晶と美由希にはシャンパン。
恭也とフィアッセ、桃子はワインをグラスに注ぎ、そして桃子が高らかに音頭を取った。
「じゃあ……新しい命に乾杯!」
「乾杯〜!」
グラスのカチンと鳴る音が高らかに響いて、ささやかなお祝いが始まった。

「もう、ビックリだよー」
「ああ、俺も何かの聞き間違いかと思ったよ」
「今回ばっかりはおさるの耳でもちゃんと現実を受け入れられたっちゅうこっちゃな」
「そうだな、ドン亀でもちゃんと聞いた瞬間に分かったみたいだからな」
ケンカしているのか仲がいいのか全然分からないテンポで、驚愕的な話を繰り返している。
なのはも、こんな時にお説教はとぐっと落ち着き、二人が取っ組み合いの直前になるまで大人しくしていた。
その隣では、桃子が恭也を小突いてニヤニヤ笑っていた。
「それにしてもやるじゃない。あたしがもうおばあちゃんになるだなんて、信じられないわ」
「それを言うならなのはの方が重大だろ、その歳で『叔母さん』だもんな」
「おにーちゃん、後で『お話』があります」
「ああ、ちょっと待てなのは。話し合おうじゃないか。さくらさんだって忍から見れば『叔母さん』なんだぞ」
「うぅ……それでも何かヤだもん、そういう呼び方」
なのはのふくれっ面に皆笑い出し、なのはも釣られて一緒に笑った。
呼び方はどうあれ、生まれてくる子供のことが、とっても楽しみななのはであった。
「名前はもう決まったんですか?」
「ううん、これから。でも、どっちにしても、子供には無理をさせたくないかな……?」
晶の何気ない質問に、フィアッセは顔をちょっぴり翳らせた。
恭也の仕事は、後ろ暗くて紅く汚れたものだ。
ボディーガードといえば聞こえはいいが、その裏で多くの血が流れる。
仕方のないことではあるし、そうしなければクライアントの命が危うくなる。
フィアッセの母、ティオレの死より、比較的まっとうなボディーガードになったものの、まだまだ課題は多い。
何よりも、なのはと同じように、子供の顔を見ずに天国へ──なんてことがあったら、フィアッセはきっと海よりも深く嘆き悲しむだろう。
恭也自身も、危ない仕事に手を出すのは一時休止したようだった。
そして、今度は桃子さえも驚愕するような大事件が、高町家のダイニングを襲った。
「はい、恭也。あーん」
「お、おい、それは二人だけでやるっていう約束じゃ……」
「あーん♪」

これには流石の桃子さえも目を丸くした。

「恭也……かーさんは嬉しいわ」
「止めてくれ……」
「お師匠、好きな人にはホントに甘々やったんですね」
「止めてくれ……」
「師匠、俺はどんな師匠でも関係ないよ!」
「止めてくれ……」
「堅物の恭ちゃんが……いちゃいちゃしてる……?」
「止めてくれ……!」
「おにーちゃん、お幸せにね」
「止めてくれ……!!」
「恭也ー、ほら、いっつも二人きりの時はやってるでしょう? それとも、わたしの箸からじゃ恥ずかしくて食べられないの?」
「止めてくれえぇぇぇぇぇぇぇぇ」
無敵の剣士、ここに敗れたり。
渋々、本当に渋々といった様子でフィアッセの「あーん」を受け、もぐもぐやっている恭也。
顔は完全に真っ赤だが、毅然とした態度を保とうと死に物狂いの努力をしているのがよく分かった。
「大好きだよ、恭也!」
「あ、ああ、俺もだ……だからそろそろ落ち着いてくれ」
「いやよ。恭也の口からちゃんと言ってくれないと。わたしは恭也を愛してる。さ、恭也も♪」
磁石みたいに引っ付いて離れないフィアッセを何とかしようと孤軍奮闘している兄だったが、遂に諦めたらしく首を左右に振った。
改めて公衆の面前で言うのがよほど恥ずかしいのか、「お、俺は……」と何度もつっかえていた。
そしてやっと全部言い切った時には、ダイニング全体がビリビリ震えるほどの大きな声だった。
「俺はフィアッセが大好きだ! 愛してる!!」
フィアッセはきゃーきゃー言いながら全力で抱きつき、恭也は何かを乗り越えた顔で黙々と食べ続けていた。
他の顔ぶれといえば、いつもは丼飯で三回はお替わりする晶や、最近ようやく背が伸びて胸も膨らんできた育ち盛りのレンでさえ、
ぽかんと二人を見つめたまま食欲をどこかに吹き飛ばされてしまったようだった。
桃子は早速週末にパーティーを企画し、なのはは気を取り直してニコニコと新婚夫婦を見つめ、
美由希は……
「恭ちゃんがいちゃいちゃ……恭ちゃんがいちゃいちゃ? えっ、ええっ!?」
ショックで錯乱していた。

結局、その日は夕食を食べた気がしなかった。
驚きと喜びが複雑に入り交じって、ご飯のことなんてすっかり忘れてしまったのだ。
そのままフィアッセは恭也と連れ立って風呂へ入りに行った。
二人が風呂に入っている間、ようやくショックから帰って来た姉の美由希と、遠からず新しい家族になる姪の名前を色々考えてみた。
その後ろでは、晶とレンがちょっぴり怪しい話をしていた。
「きっとお師匠、お風呂の中でもいちゃいちゃしてるで」
「いや、俺は師匠を信じるぞ。そんなに簡単に惑わされる人じゃない……けど」
「けど?」
「お前の言う通り、師匠は惚れた人にはとことん甘いから……」
「お師匠、普段は凄くカッコええのに、アッチの方はきっとからっきしやろから心配やわ」
「ってちょっと待った、何が心配なんだ?」
「え……そういえばそうやな。えーっと、お師匠が、その、最強じゃなくなること?」
「既にベッドの上、いや布団の上ではフィアッセさんが最強だろうな」
意味は今ひとつ分からなかったが、恋愛に関してはフィアッセに分があるという趣旨だけは理解できた。
さっきの二人を見ているだけで分かるといえば分かるのだが──それ以上は美由希に耳を塞がれて何も聞こえなくなった。
「ちょっと、おねーちゃん、どうして耳塞いじゃうの?」
「なのはにはまだ早いよ」
そう言っていた姉自身も、顔が真っ赤だった。
結局、何が何だか分からないまま、内緒話は終ってしまった。

風呂上りのフィアッセに、なのははとてとて歩いて行った。
彼女はつやつやタマゴ肌で、恭也はといえばほんのりやつれているようにも見えた。
よっぽどお風呂のなかでいちゃいちゃしていたからだろう。
「今夜……ううん、明日一緒に寝てもいい?」
いっぱい聞きたいことはあったし、いっぱい話したいことはあった。
でも、今日だけは邪魔はできないと思い直した。
フィアッセは「いいわよ♪」と快く応えてくれ、おやすみのキスをくれた。
「でも、急にどうしたの?」
「おにーちゃんがあんな風になったの、わたし初めて見たから……その、どうやったら……?」
そう言うと、フィアッセは難しい顔になった。
しばらく考えていたが、やがて人差し指を自分の唇に当てた。
「It's secret. でも、ヒントだけ教えてあげる」
少女のようにいたずらっぽく笑ったフィアッセは、なのはの身体を抱き上げた。
耳元で囁いた声はちょっと色っぽく、いつもの彼女よりももっともっと、大人の雰囲気をかもしだしていた。
「愛さえあれば、何でもできるわ」
「なんでも……?」
「YES! それじゃ、おやすみなさい、なのは。良い夢を見れるといいね」
ウィンクしてみせたフィアッセは、なのはを下ろすと寝室へと戻っていった。
ルンルン気分の後ろ姿を見ながら、なのはは思った。
──フィアッセさんはやっぱり、おにーちゃんより凄い人なのかもしれない……

***

翌日、朝からべったりのフィアッセを見かけた。
恭也も嫌がっている様子はなく、むしろ積極的に腕へ絡んでいるように見えた。
「おはよう、おにーちゃん、フィアッセさん!」
その瞬間、ビクリと飛び上がった恭也が止まりかけた時計の針みたいな動きで振り向いた。
フィアッセはクスクス笑い出し、兄は顔が噴火しそうなくらい真っ赤。
「お、おはよう……」
「おはよう、なのは!」
対照的な挨拶に、なのはも思わず忍び笑いを漏らした。
怒ったような恭也の声を背中に受けて、なのはは洗面所に飛んでいった。
「フィアッセさん、わたしも大人になったら、『愛』で何でもできるようになるかな?」
「もちろんよ! なのは、頑張ってね!」
「はぁい!」

その後ろで凄く憮然とした恭也がいたが、なのはは見なかったことにした。
何やら痴話喧嘩が始まっていたが、フィアッセが恭也をからかっているようにしか聞こえなかった。
「フィアッセさんが最強やな」
「ああ、俺も賛成だ」
騒ぎに起きてきた二人もニヤニヤと二人を見つめ、ちょっぴり騒がしい朝はゆっくりと過ぎていった。
(了)

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