いつも通りの教室、そこにはいつも通りの風景があった。
だが学生の一人、掘江弘己だけはその風景に納得していなかった。
一つだけ足りない……そう思っていた掘江の眼前に、待ちに待った光景が訪れた。
突然現れた人物に、周囲の学生も遅れて驚きの顔を見せる。
まずは意識から消えていた彼に驚き、面影から引っ張り出した記憶がそれを別の驚きに変える。
新井礼人(あらいあやと)。もう半年も大学に現れていなかった人物。
「生きてたのか」「まだ学生だったのか」「忘れてた」など周囲が好き勝手に騒ぐ中、
掘江は真っ先に声をかけずにはいられなかった。
「新井……久しぶりだな」
いや、週に一回は新井に会っていた。家に押し掛け、新井に声をかけていた。
しかし、そこにいたのは魂が抜けたような顔で日々を惰性で犠牲にする『新井のような何か』だった。
この瞬間、まさにふさわしい言葉に冗長性は全く必要がない。ひらがな4文字で十分だった。
「おかえり」
それは単に大学に帰ってきたという意味ではない。掘江が知っている『新井礼人』が帰ってきたのだ。
皆がそれに続く。「体調はどうだ」「単位は大丈夫か」「何があったんだ」……好き勝手な言葉を放ちながら新井に近づいてゆく。
皆の意識に再び、新井礼人という存在が生まれた瞬間だった。
その光景は、これほどの人間がかつて新井を囲んだことがあっただろうかと思わされるほどだった。

小難しい単位が主役の講義が終わったら、いつもの店に行って、彼の好きな鶏レタスチャーハンをおごってやろうなどと、
いつも金欠の掘江はらしくないことを考えていた。新井の出現はそれほどまでに心を躍らされる出来事であったから。
昼休みがやってきて、再び皆が新井を囲む。どうやら誰もが同じ言葉を発しようとしていたらしい。
「学食へ行こう」
新井一行は少し前まで毎日当たり前のように通っていた食堂へ向かう。
一つだけ違うのは、今日は一番細長いテーブルを独占できそうな人数が一斉に行進していたということだ。

昼前の授業は定刻よりかなり早く終了したため、運良く一行は食堂で最も長いテーブルを確保することが出来た。
各自が思い思いの昼食を手に、新井を囲むように座る。
「まるで誕生会みたいだな」
遅れてやってきた隣のクラスの学生がテーブルを見て言った冗談に、掘江は大きな声で叫んだ。
「そうだよ! 今日が新井の誕生日なんだよ!」
周りは「こいつは何を言っているんだ……」という顔をしている。
「今日から本当の新井が始まるんだよ! だよな、新井?」
新井は戸惑った声で答える。
「そう……だね」

何故、新井は突然学校へ現れたのか。皆が不思議に思っていた。
だが、皆にとってそんなことはどうでもよかった。新井が学校へ現れた。それだけで十分だったのだ。
「ほら、野菜食えよ」
同じサークルの学生が定食についてくる小鉢を新井に押しつけると、
それを見た同級生たちが続々と新井に昼食を分け与え始めた。
気がつくと新井の昼食は学食史上初、とでも表現したくなるような豪華さになっていた。
一つのトレイにおそらく5人前はあろうというメニューが所狭しと並んでいる。
「こりゃ、鶏レタス食いきれないかもしれないなぁ」
掘江は笑いながらそうつぶやいた。

午後の授業が始まった。
「新井礼人君」
「はい」
こんなやりとりも幸せに思える。当たり前だと思っていた日々が帰ってきた。
掘江はそんな充実感に包まれていた。ノートをとる新井、授業中に居眠りする新井、隠れて携帯電話を使う新井。
見慣れていたはず風景が、とても新鮮な風景に思えた。

一日の授業が終わり、周囲が異様に盛り上がり始めた。
「今日のヒーローは新井だ!」
「そうだ! 胴上げしよう」
ハイテンションになった同級生たちが口走り始める。
「そうだな!」
「新井が日本一だ!」
わけがわからないテンションで正面玄関前の駐車場へと移動する一行は、まるで観衆ゼロ人の優勝パレードのようであった。

駐車場に円陣が出来上がる。中心にいるのはもちろん新井礼人だ。
「行くぞ!」
一人が叫ぶと、一斉に新井を皆が持ち上げ始めた。
「せーのっ!」
新井が空に舞う。
「バンザーイ!」
新井が再び空を舞う。
「バンザーイ!!」
新井が三度空を舞う。
「バンザーイ!!!」
その時だった。強い光が優勝チームを襲い、皆が目を閉じる。
そして、三度宙に舞った新井を受け止めようとした手に、人の重みはいつまでたっても感じられない。

目を開くと、皆が不思議そうな顔をしていた。
「あれ、俺は何をしてたんだっけ」
「なんでこんな所に集まってるの?」
掘江だけが叫んだ。
「おい! 新井はどこへ行った!」
同級生たちは目を点にした。
「新井? 今日も学校来てないぞ」
「そういえば今日もいないね」
360度周囲を見渡しても、新井の姿は無かった。
掘江が鬼の形相で叫んだ。
「ここに新井がいたはずだ! さっきまで胴上げしてただろ!」
何を言ってやがるこいつ、という目をしながら
「胴上げ? なんでそんなことするの?」
「新井が優勝でもしたの?」
などと不思議そうな顔をしながら同級生は返事をする。

その後、掘江はひとり周囲を捜したが、新井はどこにもいなかった。
「今日の新井は幻だったのか……」
そんなことを呟いていると、隣のクラスの学生が掘江に声をかけてきた。
「何か捜し物かい?」
「ああ、新井を……」
「新井? 今日は新井が来てたの?」
「そうだよ。今日から新井が始まった……はずだったんだ」
「とりあえず、家まで行ってみようか」
そう言われ、掘江は新井の家へ行ってみることにした。

先ほどの学生と二人で新井の家を訪れると、そこにいたのは魂が抜けたような顔をした新井だった。
「おい新井! 今日は大学に来てたよな!?」
「みんなで学食行ったよな!?」
そんな叫びにも新井は口を開かず、ただ首を横に振った。
掘江はこれ以上ない絶望の表情を見せると、新井の家を去った。

帰路。長い下り坂。掘江は隣を歩いていた同級生に言った。
「いつか俺、本当の新井を見つけるから」
同級生は不思議そうな顔をしながら、夕暮れの坂路を下るしかなかった。

〜来年に続く〜



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